消費単位が変われば、時代が変わる(2015年7月10日更新)
「消費単位が変われば、時代が変わる」
70年前の夏、日本は「近代」という一つの時代の幕を閉じ、次の時代の幕を開けました。
近代という時代は、産業革命による資本主義の発達や、市民革命による市民社会が成立することによって「国民国家」を確立させました。国民国家は、所属する国民に対し、納税や兵役、投票といった新しい義務や権利を与える事により国家の力を増幅させ、多大な税収で港湾整備や鉄道工事、学校設立などの事業を推し進め、工業社会を作り上げたのです。すなわち、「近代」における消費の主役は国家と言えます。
明治新政府の成立によりスタートした近代日本は、周回遅れの国家でした。欧米諸国と対等になるため、国民が豊かになる前に国家が豊かになる事を優先し、兵力を増強しました。国家の栄養源は発展する工業であり、それから産み出される富は軍事力であり、国民は消耗品でした。
このように、経済の主役が国家であった時代、国家が発展すればするほど社会は硬直化し、国民は消耗していきました。その理由は、人が「経費」だったからです。
いっぽう、現代はどうでしょうか。戦後、経済の主役は国家から企業へ、企業から家庭へ、そして個人へと移っていきました。そしてそれを後押しするかの様に、住宅ローン、自動車ローン、消費者金融と、消費欲求を満足させる様々な仕組みが整い、さらにインフレマジックが、富の所有を推進しました。
このような、経済の主役が個人になった消費社会においては、価値創造の形もこれまでの時代から大きく変化しました。「物作りで価値を創造していた時代」から「市場で売れる物を作る時代」へシフトしたのです。市場ニーズを追求した価格競争・ブランド競争・デザイン競争が苛烈を極め、市場が細分化した結果、商品やサービスの寿命がどんどん短くなり、製造・販売・顧客同士の持続した関係作りが劣化してしまいました。それにともない個人レベルでの競争が激化し、人生を消耗する人が増え、自殺やうつ病の増加にもつながりました。豊かになればなるほど満たされない、衣食住足りて孤独になる、そんな矛盾した社会になってしまったのです。
「豊かになりたい」という欲求がさらなる消費を生む、無限に欲し続けることで維持される大量消費時代は、深刻な地球環境問題を引き起こし、生命の持続に重大な制約条件を突き付けています。今こそ、人間や自然が消耗品にならない、新たな消費の主役を作り出さなければなりません。私は「消費すればするほど、自然や人間関係が豊かになる社会」を実現するには、消費の主役を個人から「共感する仲間」へと変化させる必要があると考えます。
消費すればするほど、自然資本や人間関係資本が豊かになるということは、全ては全てに依存するという、生態系にも似た循環経済になります。それが実現すれば、国民や人生が消耗品にならずに済み、全て資源になり資本に転化していくのです。
こんな暑い夏の風景も、見え方が変わる、かもしれません。
2015年7月10日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介
会長メッセージ
※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。
※啐啄同時(そったくどうじ)とは
鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。