「希望を感じるために 。」(2016年5月11日更新)
「希望を感じるために 。」
4月、北朝鮮の新たな核実験実施の懸念を巡り、世界に緊張が走りました。核兵器廃絶に向けて世界が動く一方で、核を使って自国を防衛しようとする国や、その必要性を主張する団体はなくなりません。
人類は、これからも愚かなことを繰り返すのでしょうか。
我々は、広島や長崎における原爆の悲劇、あの人災から学ばなければなりません。東日本大震災によって原発事故を経験した福島や、悲惨な公害を経験した四日市、川崎、水俣などの人災から学ばなければなりません。
阪神淡路大震災や東日本大震災や熊本地震の例を出すまでもなく、毎年襲来する台風や豪雨や洪水、火山や津波などの天災から学ばなければなりません。
圧倒的な破壊力で社会を攪拌するこれらの人災天災によって絶望を感じたとき、どうすれば人々は再び希望を感じることができるのでしょうか?
アウシュビッツに送られて生き残った、オーストリアの精神学者で心理学者のヴィクトール・フランクルは、戦後にその経験を本に記しました。
-ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。-
『夜と霧』(フランクル)より
生きることに対して、目的や意味を見出せず「生きることに何も期待できない」と絶望した人は、生きる力を失い、破綻してしまったそうです。このフランクルの体験からくる視点は、現代の日本や世界にも当てはまると思います。
かけがえのない自身の命に意味を見出そうとする個人主義は、人生に絶望した時、生きる力を失ってしまいます。そしてその絶望の苦しみから逃れ、絶対的自由を求めるあまり、自ら命を絶ってしまったり、原始的な暴力的自由の社会へ吸い込まれていく人もいます。反社会的集団や狂信的な政治集団や宗教集団に絶望からの救いを求め、絶対的自由な組織の中で、絶望的に不自由な個人として埋没してしまうのです。
フランクルは、「自らのかけがえのない命に意味をなそうとするのでなく、かけがえのない命のために自らは何が出来るか?」という主語の違いを指摘しています。主語が個人か、生命か、の違いです。
今こそ生命の尊厳を守るために、自分の中にある生命が、問いかけます。
「お前の命をお前は、大いなる生命システムのためにどう使うのか?」と。
「個人」から「生命」へ主語が変わった時、絶望を感じていた価値観が180度方向転換します。
私の中にある生命は何に満足するのでしょうか?どんな価値観を求めているのでしょうか?
少なくとも「貨幣」ではありません。「知識」でも無く、「家柄」や「世間体」でもありません。
それは「絆」だと私は思います。
人災や天災といった絶望の中で、人々が見せた希望の光は、無私の心で弱者に奉仕するという命の使い方でした。絶望から生まれる希望のメカニズムこそが、人間がこの世に存在する意味の光明を見出します。自分や家族や仲間のためと言う閉じた自己肯定ではなくのものではなく、目の前の弱きもののために奉仕することで生まれる「絆」こそが、未来へと生命をつなぐ希望を生むのです。
アミタグループが創ろうとしている「循環システム」は、自分以外の関係の為に行動しやすい仕組みになっています。次のこと、他者のこと、未来のことを考えて、今を行動する。この行動動機が増幅すればするほど、人の意識は、個人から社会へ、社会から生命環境へと移ります。生命のために、経済的な動機より社会的な動機で動く社会を、気が付いた者達から構築していくことが大切だと思います。東日本大震災で被害を受けた宮城県南三陸町では、この循環システムの構築が始まり、その取り組みが、社会を変革する世界標準モデルとして注目され始めました。
ユーラシアの西の果てで生まれた近代文明は、世界に大きな繁栄をもたらしましたが、文明の発展は限界を迎え、世界に今「絶望」が蔓延しつつあります。「先進国」と言われている日本は、毎年3万人前後の自殺者をだすという絶望の「課題先進国」であり、近代の人災と天災を経験したもう一つの封建社会経験国でもあります。このユーラシアの東の端の国から、生命の尊厳を守る「循環システム」で新しい産業革命を興し、希望を感じられる時代を作りたいものです。
私は自身の命を、そのために捧げたい。
2016年5月11日
アミタホールディングス株式会社
代表取締役会長兼社長 熊野英介
会長メッセージ
※2013年3月11日より、会長・熊野の思考と哲学を綴った『思考するカンパニー』(増補版)が、電子書籍で公開されています。ぜひ、ご覧ください。
※啐啄同時(そったくどうじ)とは
鳥の卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつくことを「啐(そつ)」といい、これに応じて、母鳥が外から殻をつついて助けることを「啄(たく)」という。 雛と母鳥が力を合わせ、卵の殻を破り誕生となる。この共同作業を啐啄といい、転じて「機を得て両者が応じあうこと」、「逸してはならない好機」を意味する ようになった。このコラムの名称は、未来の子どもたちの尊厳を守るという意思を持って未来から現代に向けて私たちが「啐」をし、現代から未来に向けて志ある社会が「啄」をすることで、持続可能社会が実現される、ということを表現しています。