未来デザイン談義 -安田 登 氏×熊野 英介 編- vol.4 最終話

「エコシステム」をテーマにした2020年の啐啄同時、9~10月は、能楽師 安田 登 氏との対談形式(全4回)をお送りします。古典から最新のテクノロジーまで、古今東西の身体知に精通し、多彩な創作活動を行う安田氏。
最終回は、未来づくり・価値づくりの原動力の鍵となる、人間の欲望の変化と愛の話、そして未来の社会像について語り合いました。
(対談日:2020年8月7日)

次の社会づくりの原動力とは? ー欲望のタブー視と情動

熊野:このコロナ禍でもう1つ感じることは、若い世代を中心に "生きるためにはそれほどお金やモノはいらない"という人々が、増えてきているのではないか、ということです。「最小努力の最大幸福」で生きていこう、というスタンスの人が増えている印象です。これは、自然界にも通じる生存戦略だと思います。
例えば、ナマケモノが動かないのは、動体視力の優れた天敵であるジャガーに気付かれないためだと言われています。ただし、動かないままではお腹がすく。そこで、他の動物が食べられない毒のある植物を食べるそうです。生きるための戦略としての、自己革新です。
「努力した分だけ幸せになれる」と教えられた私たちの世代にとってはコペルニクス的転回ですが、コロナを契機にこうした変化が始まっているように思います。

このような生き方は「シンプルライフ」的で良いと思う一方で、どこか違和感もあります。
若い世代に「欲望をタブー視する」傾向を感じるのです。
欲望は変化や圧力を生むので、程よい距離感で関わる。他人に物怖じしないけれど、"何かやろう"と人を巻き込むには自信が無い...。こういった若者に「もっとワクワクドキドキしろよ」というおじさんのメッセージは空虚に響くようです(笑)。

近代は、科学が進歩すれば、経済が活性化すれば、豊かになるはず...と考えて頑張ってきた時代。コロナ以降は"それでは幸せにならない"と気付いていく。科学も経済(金融)も目的ではなく手法に過ぎないんだと。それは正しい。
一方で、人間にはどこか"業"のような、自分ではコントロールできないものが潜んでいるように思います。例えば、孤独は嫌だ、孤独になりたくない、というのは非常に強い欲求であり、究極のエゴでもあります。しかしこうした業や欲望が、無自覚に無因果を引っ張り込み、新たな関係性を生み出していくものではないでしょうか。魂というか、情動というか...。

安田氏:確かに、AIやVRなど"虚"のコミュニケーションのネイティブ世代になると、魂や情動を恐ろしがる可能性はありますね。
「欲望」も、それから"無主風と有主風"の話で出た「忘却」もそうですが、これまでネガティブに捉えられてきたものを、ポジティブに捉えなおす。それが次の社会へのシフトに必要なことではないかという気がしています。

熊野:そうですね。孤独は嫌だ、という欲望も、それが人の業であり、皆が持つものならば、究極のエゴであると同時に、究極の利他であるともいえます。
私はよく社員に"戦争の反対は平和ではない。戦争の反対は創造だ"と話しています。戦争は武力や政治力などの"力"で創られた、ある種の価値です。反対に「平和」という価値は創りにくい。今はまだ、戦争と戦争の間の"状況"でしかないように思います。
だから「戦争を無くす」ためには、世の中を分析するのでも、反戦争や反社会を主張するのでもなく、「戦争を超える価値」をつくらないといけない。その原動力は、暴力でコントロールされる価値に代わる「新しい価値、新しい社会が見たい」という意思ではないかと思います。

未来の社会像とは ―「愛」の概念と社会のメタファー

安田氏:ところで、私は今、日本における「愛」とは何か?という研究をしています。そもそも現在の「愛」という概念が出てきたのは、日本では明治以降なんです。日本では「恋愛」や「罪と罰」など、日本古来の "訓読み"と中国から輸入された"音読み"がセットになった言葉が幾つかありますが、本来は一緒にできないものだと考えています。
「愛」は、古語では「をしむ(惜しむ・愛しむ)」なので、元々は"惜しむ、けちけちする"といった "良くないもの"として使われていました。

熊野:仏教が否定する"執着"ですね。

photo_by_Taikai2018_2.jpg安田氏:「LOVE」には色々な日本語訳が考えられたようですが、中でも鈴木大拙の「愛」についての説明が興味深い。彼は能『山姥』のシテ(主人公)である"山姥"こそが「愛」だ、と言うんです。目が怖くて、髪が真っ白の、山にいるおばあさん...というイメージの、あの"やまんば"です。
私たちのイメージとしての山姥は恐ろしい鬼女ですが、本当は山姥とはどういう人かというと、山々を周って里に向かい、福を与えて、また別の里に向かっていく...。そんな中で、例えばきこりの人が重い荷物を背負いながら道を歩いていて、ふと荷物を軽く感じることがある。あるいは、機織りをしていて、すごく上手くいくことがある。それらは実は、山姥の仕業なんだと。大拙は、そんな山姥こそが愛だと言うんです。絶えざる働きが「愛」だと。彼はこれを「untiring labor」と書きます(大拙のこの文章は元は英語で書かれています)。大変につらい、"労働"なんです。だからこそ彼女は見た目が老婆になっている。「愛」と言えば、私たちは天使や女神など何か美しいものを思い浮かべがちですが、本当の「LOVE」は醜い姿をしているし、いつも苦悩を抱えている。彼は「愛」という言葉を、そんなふうに捉えたのです。

熊野:他人のつらさを引き受けるのが「愛」だと。

安田氏:そして解決するのに常に走り回っている。他者のための絶えざる労働ですね。

熊野:「愛」に比べて「恋」は本来どういうものなのですか?情動を動かすのはどちらなのでしょうか。

安田氏:情動を動かすという意味では両方だと思います。「恋」は元々「乞う」であり、欠落から生まれるものです。本来自分の一部であると思っていたものが一時的に欠け、それが戻ってくるまでは心が落ち着かない。それを引きよせようとする渇望が「乞い」です。それが恋愛関係の場合は「恋」になり、雨を渇望すれば「雨乞い」になり、食べ物を渇望すれば「乞食」になります。
しかし、欲望が希薄化していく現代では「恋」は減っていくかもしれません。しかし「愛」は欲するものでも、渇望するものでもありません。他者のための絶えざる働きです。これから、もっと研究したいと思っていますが...。

熊野:外来語と共に西洋的なモラルが入ってきて、今の常識を形づくっているんですね。

安田氏:社会的な概念という点では、もう1つ、国家というシステムが紀元前1000年くらいに形成されて以来、「人間の身体」がそのメタファーとして用いられてきました。頭がてっぺんにあって、その下に手足があるイメージです。ボスが上にいて、手足のように働く部下が下にいるような形で、これは国家だけでなく、企業もそうだし、多くの組織もそうなっています。
しかし現代では、そのメタファーが機能しなくなりつつあることを多くの人が何となく気づいています。そうなると「社会」を捉える、新たな身体性のメタファーが必要な段階に来ていると思います。
新しい社会像は、鳥の群れや、あるいは"渦"のような、中心が無かったり、現象はあるが実体の無かったりするようなものではないか、と考えています。そしてその社会は、企業が創っていくのではないでしょうか。

IMG_0448_cut.jpg熊野:ブロックチェーンの実用化が進めば、貨幣に代わる新たな交換システムになり得ます。自律的な最適解が導き出されるシステムが実現すれば、ヒエラルキーによる統治は不要になります。これからの経済・政治・社会システムは、大きくて強い権力にコントロールされるのではなく、国家の統制を超えて、未完成のまま互いに影響し合い、変化し合いながらも一定のバランスを保って動いていく。そんな時代に突入する予兆を感じます。

安田氏:例えば、ボスが不在のプロジェクトが成り立つのか。企業の利点は、そういう"実験"できることです。国家は実験ができませんから。

熊野:私たちアミタも、行政や複数の企業と連携して挑戦しているところです。サーキュラーエコノミーの実現に向けた開発として、企業の枠を超えた共創により、社会的な最適解を提供していく試みです。
「人間」を中心とする社会から、「自然」という総体へ。自律的な調整機能を有する生態系(エコシステム)こそが、次世代の社会像であり、持続可能な社会のモデルだと私は考えています。
今回の対談では、その新しい時代への飛躍に向けた、知恵や視点を沢山いただきました。ありがとうございました。

対談者

安田 登 氏

能楽師(下掛宝生流)。東京を中心に能の舞台に出演するほか海外での公演も行う。また、シュメール語による神話の欧州公演や、金沢21世紀美術館の委嘱による『天守物語』の上演など、謡・音楽・朗読を融合させた舞台を創作、出演する。著書多数。NHK「100分de名著」講師・朗読(平家物語)。

  

参考図書

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